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(1)旧『エレミヤ書』8-8
どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者と言われる者で
主の律法を持っている」と。
まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き
それを偽りとした。
預言者エレミヤは紀元前650年〜紀元前647年ごろ、南王国ユダ、エルサレムの北側にあるアナトテという小さい村に誕生している。 その地の祭司ヒルキヤの息子として生まれました。 彼が誕生したのは、55年間も続いたあの罪の権化のようなマナセ王の治世晩年でした。 神は、エレミヤが20歳くらいの青年時代に預言者として召しなさったのです(紀元前627年頃)。 ユダの王ヨシヤの治世13年(紀元前627年)の時でした。 当時のユダ王国はヨシヤの前の前の王マナセの罪深い悪政によって霊的にも政治的にも最悪の状況に陥りつつあったのです。エレミヤは幼い頃からマナセの悪政を見聞きして育ち、特に祭司の家庭に育った者として国の前途を憂慮していたでしょう。純真な思いを持って国を考えていたでことでしょう。 そこに16代目の王としてヨシヤが立てられ、早速に宗教改革を始めました。エレミヤも預言者として女預言者フルダたちと共に、ヨシヤ王に協力しました。ヨシヤの宗教改革のスタートは良いものでしたが、次第にしりつぼみとなっていったようでした。それほどの効果がなかったようです。それほど、マナセの悪い影響が宗教指導者の心にも一般の人々の心にも深く及んでいたと思われます。 特に改革を目指したヨシヤ王自身がエジプトと戦って戦死したことによって、その改革は頓挫してしまったのです。受け継ぐ王たちにはユダの国を政治的にも、霊的にも守り保っていく力はなかったのでした。 (※)日本においては紀元前660年に神武天皇が即位されている。 |
(2)旧『ダニエル書』12-4
ダニエルよ、終わりの時がくるまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。
(※)封じておかるべし
『ダニエル書』12-13
終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。
紀元前605年バビロンに捕囚に連れて来られたダニエル。 ネブカデネザル王により、ダニエルが生きていた時代からみると、遠い将来の『神の裁き』の時に、イスラエルに何が起こるかという預言を残した。 |
(3)旧『マラキ書』2-7、2-8
祭司の唇は知識を守り人々は彼の口から教えを求める
彼こそ万軍の主の使者である。
だが、あなたたちは道を踏みはずし
教えによって多くの人をつまづかせ
レビとの契約を破棄してしまったと
万軍の主は言われる。
マラキは、旧約聖書のマラキ書を著した、北イスラエル王国の預言者。 祭司達への裁きの宣告と、民衆に向けての神を恐れる者達に有る報い(マラキ書 3章16節〜18節)、そして予言者エリヤの再来とされる人物の出現(マラキ書 4章5節)とを預言した。 この内後者は、新約聖書の中では洗礼者ヨハネのイエス・キリストに対する関係を預言したと解釈されている。 尚、アイルランドの聖職者で、教皇に関する予言を遺したとされる聖マラキは全くの別人である。 |
(4)新『マタイによる福音書』23-13
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
『マタイによる福音書』9:9によればローマ帝国の徴税人であったが、イエスの召命に応えて弟子となったとされる。 『マルコによる福音書』2:13以下と『ルカによる福音書』5:27以下では同じような記述がみられるが、呼ばれた弟子の名前は「アルファイの子レビ」または「レビ」となっている。このため、伝統的にはマタイとレビ(レヴィ)は同一人物をさすと解釈されてきた。 |
(5)新『ルカによる福音書』11-52、11-53、11-54
あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろな問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
『ルカによる福音書』及び『使徒行伝』はルカの手によるものとして「ルカ文書」と呼ばれるが、福音書及び使徒行伝には著者についての記述が欠けている。 一方、新約聖書中には、ルカと云う名前がパウロの書簡に協力者として現れる(『フィレモンへの手紙』24、『テモテへの手紙2』4:11、『コロサイ人への手紙』4:14)。 教会の伝承では、早くからこの人物が福音書及び使徒行伝の著者とされてきた。 『コロサイ書』には「愛する医者ルカ」とあり、ここから福音書記者ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきた。 |
(6)新『ヨハネの黙示録』22-18、22-19
この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
また、この預言の書の言葉から何か取り去るものがあれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
聖書自身の自己証言による伝統的な理解では『ヨハネによる福音書』、『ヨハネの手紙一・二・三』、『ヨハネの黙示録』の著者をすべて使徒ヨハネであると考えてきた。 西暦2世紀のパピアスは、この書を使徒の作とみなしていた。 2世紀の殉教者ユスティヌスは自著、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』の中で「キリストの使徒の一人で、名をヨハネという、ある人がわたしたちと共にいた。彼は自分の受けた啓示によって預言をした」と述べている。エイレナイオスは、2世紀末および3世紀初頭のアレクサンドリアのクレメンスやテルトゥリアヌスと同様、使徒ヨハネがその筆者であることを述べている。 3世紀の聖書学者であるオリゲネスはこう述べている。 「わたしはイエスの胸に寄り掛かったヨハネについて語っているが……彼は一つの福音書を残した……彼はまた、黙示録をも記した」。 さらに、『黙示録』の著者は、自らを「しもべヨハネ」と称し、「神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と記しているが、これは伝承による使徒ヨハネの晩年の境遇と一致する。 また、新約聖書において「小羊」という言葉をキリストの象徴として用いているのは、『ヨハネの黙示録』と『ヨハネによる福音書』だけである。 |